袖を振るオリオン 笹本雅行 栃木県
日本には古来、星の神話・伝説が少ないと言われるが本当だろうか。そんなことを考えるきっかけとなったのは1997年7月7日、図書館を出て、折からの夕立をやり過ごそうと隣接するプラネタリウムに入ったことからです。
プログラムは七夕にちなんだ御伽草子「天稚彦(あめわかひこ)物語」で、粗筋はこんな具合です。
三人の美しい娘をもつ長者のところに大蛇が現われ、娘を嫁にほしいと言う。一番下の娘が承諾すると大蛇は美しい若者に変わり天稚彦(あめわかひこ)と名乗る。
二人が楽しく暮らしていたある日、天稚彦は天に用事があると言い残して姿を消す。娘は植物の蔓を伝って天に昇り、夕づつ(金星)、ほうき星、七人連れのスバル、明けの明星(金星)に次々と道を尋ね、天稚彦と再会する。しかし天稚彦の父親は「嫁として相応しいか試す」と言い、娘に様々な試練を課す。その最初は、朝に千頭の牛を野に放ち、夕方には牛舎に戻しておくと言うもの。
娘が困っていると天稚彦は袖を振って興奮する牛を鎮め、その袖をちぎって娘に渡す。娘が天稚彦の袖を振ると牛たちはおとなしく従う。いくつかの試練を天稚彦の助けによって克服した娘は結婚を許される。「しかし会うのは月に一度だけ」と父親が言うのを聞き間違えた娘は「年に一度だけ?」と聞き返す。父親は「そうじゃ、その日は7月7日とせよ。」と答え、天の川が二人を隔ててしまう。
天稚彦物語は星の伝説ですから、七夕物語のように星座との関連について何か解説があるのかと思っていましたが、お話だけで終ってしまい物足りなさを感じました。話としても、聞き間違えて会えない期間が延びてしまうのはいかにも奇妙な結末です。家に帰る道すがら、この“めでたし、めでたし”とは言いかねる物静の主人公が星だとしたらどの星だろうと、どんよりと曇った空を見上げた時、ふとこんな考えが浮かびました。「天稚彦はオリオンではないだろうか。」
私はその前年の1996年秋に東京から栃木の片田舎に越し、真夜中近く外に出てオリオンが見事に輝いているのに驚きました。都会で見えるのはベルトの三ツ星と胴体だけですが、ここでは左手に弧を描く弓を持つ姿がはっきりと見えます。これこそは古代ギリシャ人が夜空に見た巨大な狩人の姿です。右側には角を振り立てて突きかかる牡牛、その肩口にはスバル。二時間ほど後にもうー度外に出て見ると、オリオンはうさぎ、大犬など冬の星座を引き連れ、対峠する牡牛を押し返すかのように西に移動しています。それは天球の回転をまざまざと感じさせ、漆黒の夜空を背景に金と銀とで描いた蒔絵のようです。
プラネタリウムからの帰り道、物語を反芻するうちにこの光景と天稚彦が袖を振って牛を鎮める場面が重なりました。オリオンは美しく弧を描く袖を牡牛に向かって振る姿とも見えます。これはギリシャ星座を知っていてこその発想ですが、御伽草子が室町時代のもので、鉄砲や宣教師のように南蛮船に乗って来たとすれば突飛な思い付きともいえません。千頭の牛の放牧と言うのも西方の香りがします。しかし夏の夜の物語としてオリオンは場違いでしょうか。
梅雨が明けると、夕刻に草を刈ることが夏の日課となります。半時もすると西側にある杉の疎林の向こうに日が落ち、その上に金星が輝き始めます。「夕づつは羊たちを牧舎へ、子供たちを母のもとへ帰す」と言うギリシャの古詩のとおり、私もまた草刈をやめて夕餉の食卓の待つ我が家へと帰るのですが、その時、気がついたことがあります。一昨日、西空に輝く夕づつ(金星)のさらに西側に糸のように細い月が昇った。昨日(きのう)はイスラムの国旗さながらに三日月は金星と並んで輝いていた。そして今日、月は金星を通り過ぎて東に移動している。その光景を見ながら私は天稚彦物静の謎がスッと解けてゆくのを感じました。それは「天稚彦(オリオン)を探して天空を西から東へと旅した娘の正体は“月”だ」ということです。
娘が辿った道を追って見ると、蔓を伝って天に昇り、娘は西の地平線近くにいる夕づつ(金星・宵よいの 明 星)に会う。西に進むと地平線の下に沈んでしまうので、娘はここから東の方向に進んだと思われます。そしてほうき星に会う。これは夜空の放浪者ですからどの辺りで会ったのか分らないけれど、スバルにはかなり東に行ったところで出会ったはず。その次には東の地平線近くで輝く明けの明星に会っている。西の夕空にいた宵の明星が未明の束の空に明けの明星となって現われたと言うことは、かなりの日にちが経っていることになります。その明けの明星に教えられて娘はついに天稚彦と再会します。スバルの東にあって主人公に相応しい存在感を示す星座といえば、それはオリオンです。
星座を構成している恒星は日周、年周運動共に西へと進みます。一方、月は日周運動では刻々と西に動いて行きますが、公転運動によって東に向かって地球の周りをおよそひと月で一巡りします。その過程で月の軌道近くにあって西へ移動して行く恒星とひと月に一度巡り会う事になります。天稚彦物語の結末で父親が「会うのは月に一度」と言うのは正にこの事実を言っており、娘の聞き間違いは七夕伝説に合わせるために後から付け加えられ、その結果、天文現象との対応を欠いて奇妙な物語となったというのが私の解釈です。
このとき以来、私は夜空を見上げては27日から28日の周期で起こる月とオリオンの出会いと別れを見続けてきました。一朔望月(満月から次の満月までの日数)は29日強なので月はオリオンと出会うごとに月齢が変わってゆきます。一年を通してみればこの会合が最も良く見えるのは冬の間で、 4月下旬になるとオリオンは夜空から姿を消します。天稚彦(オリオン)が再び姿を現わすのは7月中旬、東の地平線近くで娘(月)との再会を果たすのは8月の未明です。こうしてみると物語は月とオリオンのひと月に一度の出会いと別れ、春から夏にかけての天稚彦(オリオン)の不在、夜空でオリオン登場の先触れとなるスバル、そして夏の未明、東の空での久方ぶりの再会、それを見守るかのようにある時は西の夕空に、ある時は未明の東の空で輝く金星、と言う星々の動きを巧みな擬人化によって表現したものといえないでしょうか。
作家の三島由紀夫に「中世の御伽草子の世界は手函の中の夜を覗き見るようだ。」という内容の文章があったと記憶しますが、天稚彦物語はまさにそんな世界で、精妙に作られた手函の中のプラネタリウムという感じです。しかしこの手函は中世に海を渡って来たのではないか、そう考えてオリオンの登場する星伝説を探してみました。
月の女神が恋するオリオンを鹿と見誤って射殺し、哀れんだゼウスが遺体を天上に上げて星座とし、月の通り道の近くに置いたというギリシャ神話があります。しかし天稚彦物語ほど複雑な内容をもったものは海外にも見当たらず、一方、意外にも日本には古い時代に遡るほどオリオンを含む星々が登場する話が多くあることに気づきました。勿論日本の伝説の中で“オリオン”とは呼ばれませんから、天稚彦と同様にその姿や出没、動き、登場するほかの星との位置関係などからオリオンだと類推するほかはありません。
8世紀に編纂された風土記の逸文に「筒川の嶼子しまこ」があり、仙界を訪ねた嶼子を7人の昂星(すばる)、8人の畢星(あめふり)、次に亀姫が順に迎える場面があります。私は亀姫をオリオンと考えていますが、この中の昂星(ぼうせい)、畢星(ひっせい)といった表記は中国の二十八宿から取られたとの説があります。古代中国天文学では全天から28の星座を選んで 宿(しゅく)と呼び、月はその宿を一日ごとに移動して28日目で天球を一周します。つまり二十八宿とは月の公転周期(27日強)であり、天稚彦(オリオン)と娘(月)の出会う道程と周期に他なりません。
ちなみに高松塚古墳壁画の二十八宿図を見ると、昂宿、畢宿、参宿と並ぶ参宿の姿はギリシャ星座の
オリオンそのままです。天稚彦物語のような星伝説が創作された背景にはこうした天文知識があった
のかもしれません。古事記の神代記に上筒うわつつ、中筒なかつつ、底筒そこつつの三神誕生の場面がありますが、それは海から昇るオリオンの三ツ星だと言う説があります。
多くの民族がオリオンを航海の守り神としていますが、この三神もまた後に住吉大社に祭られ、弓を持つ海神・住吉明神となります。日本書紀では日向にいる神武天皇をヤマトへと導く海神塩土老翁しおつつのおじが亀に乗り釣竿を持った姿で神武の前に現われ水先案内を申し出ますが、“塩土しおつつ”とは“潮筒しおつつ”(海から昇る星)であり住吉明神と同体とされます。
風土記にはいくつか星伝説と思われるものがあり、そのひとつ牛窓伝説は「備前国牛窓沖の海中から巨大な牛が現われ船人を苦しめていた。そこに不思議な老人が現われ、牛を投げ飛ばして退治したが、その老人は住吉明神だった」という話です。この住吉明神にオリオンをあてはめるとギリシャ星座そのままの情景が浮かび、同時に天稚彦が袖を振って牛を鎮める場面を彷彿とさせます。
弓を持ち、あるいは釣竿を持ち、海亀の背中に乗り、牡牛と対峙し、そして袖を振る、これらが古い伝説の中に描かれたオリオンの姿です。天稚彦物語は一見、日本の伝統の中に収まらないようですが、こうして見てくると簡単に室町時代の西方伝来と断定は出来ないようです。
流星が現われては消える夜空を見上げていると、日本の古代には豊かにあった星伝説の多くが、いつの時代にか天稚彦物語の様に改変が加えられ、天文現象との対応を失い、意味不明なものとなって消えていったのでは、と思えてなりません。
(2009年10月21日オリオン座流星群の流れる夜に記す)
天稚彦物語
天文考古室
天稚彦物語
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